鹿部町の歴史がここでわかる! 鹿部町History

3万2千年前 秀峰・駒ヶ岳はこんな昔からあったんだよ!
その動かぬ証拠が昭和60年に発見された鹿部化石林!駒ヶ岳が噴火した時の火山灰で埋もれた木がそのまま残っていたんだって。
元禄13年(1700年) 元禄御国絵図
寛政3年(1791年) 菅江眞澄の絵日記
寛政8年(1798年) イギリスの船「プロビデンズ号」が測量の為に内浦湾に来航しました。
この時の船長さんだったブロートン氏は内浦湾を「噴火湾」と命名。
噴火湾の名付け親はイギリス人!
寛政12年(1800年)蝦夷嶋奇観
幕吏村上島之丞が描いた数々の絵にはアイヌの人たちの生活や風俗がしっかり描いた描かれており、東京国立図書館蔵の堀田本が自筆の完成本とされています。 ちなみに「鹿部」の名の由来はアイヌ語で「シケルペ(キハダの木のあるところ)」が訛ったものなんだって。アイヌにとってキハダは神聖な木として尊重されてたんだって!
安政2年(1855年) 南部藩砂原陣屋築設
外国船の来航が多くなった為、蝦夷地は再び江戸幕府と東北五藩によって警備される様になりました。箱館から今の室蘭周辺までは南部藩が護衛にあたり、砂原に新たな陣屋が作られました。
安政3年(1856年) 松屋岬台場が完成
当時鹿部領内だった松屋岬に砂原陣屋の出先として遠見処が築設され、外国船の湾内出入の動向が監視されました。
安政2年(1855年) 東蝦夷地海岸図台帳
嘉永年間(1850年頃) 南部の人勇吉がマグロの建網大謀網を伝える!
南部(今の盛岡)から来た大坪勇吉は謀路(現南茅部町岩戸)沖から常路(現鹿部町大岩)沖にかけてマグロの定置網を仕掛け、年々成果を得ていきました。
安政3年(1858年)
8月26日
駒ヶ岳大噴火!! 大変だぁ!!
安政3年(1858年) 庵原氏により函館(箱館)への近道が開削されました。
安政4年(1858年) 箱館奉行、新しい鉄銭「箱館通宝」を作りました。
ゼニやゼニや!
安政6年(1859年) 延叙歴検真図 鹿部村
万延元年(1860年) ロシアの植物学者マクシモービチが日本の植物分布調査の為に箱館に上陸、駒ヶ岳の植物も調査。鹿部にも翌年に来村、一泊しました。 彼を案内していた須川長之助氏は高山植物「チョウノスケソウ」の名の元になった人!
明治元年(1868年) 戊辰戦争、そして旧幕府軍が蝦夷地鷲ノ木(森町)に上陸。箱館戦争が勃発しました‥!!!
鹿部へは土方歳三率いる別動隊が同年12月に宿営しました。
明治2年(1869年) 七飯町軍川(いくさがわ)から鹿部を経由して砂原まで続く「東本願寺道路」が開削されました。
明治12年(1879年) 鹿部村戸長役場が開設!パチパチ。
初代戸長さんは高橋松之助氏。
岩橋轍輔の主唱により北海道開進会社が設立。北海道開拓のため全道38地区が割渡しを出願しました。鹿部村の山野も開拓の目的で出願されましたが入植は実現しませんでした。
明治14年(1881年) (当時)熊泊村の常路地区が鹿部村へ合併されました。
公立鹿部学校創立~
12月17日に戸長役場を改造して、開校されました。 開校時の児童数は24名(男19名、女5名)でした。
明治17年(1884年) 鹿部村漁業組合創立。
明治20年(1887年) 鹿部小学校、鹿部村役場そして森警察鹿部分署が新しくなりました。キレイになったぁ~。
明治28年(1895年) 前年に消防法が制定。鹿部村にも消防組が創設されました。
明治40年(1907年) 大沼~鹿部間に客馬車が開通☆
折戸川、大沼第一発電所の運転開始
大沼の水を流し水力発電を行う為に、折戸川上流(字小川)に発電所が建設されました。電気は函館市街に供給されました。
明治41年(1908年) 鹿部鉱山
明治28年(1895)に斉藤虎松らが雨鱒川の上流で硫黄鉱を発見。その後規模が大きくなり、明治33年(1900)には山本鉱山が出来ました。
そしてこの年、山本鉱山は鹿部鉱山と改称されました。
明治43年(1910年) 大沼第二発電所の運転開始
大正8年(1919年) 鹿部川上流、大沼第三発電所の運転開始
大正9年(1920年) 第1回国勢調査
鹿部村には471世帯2,425人の居住が確認されました。
大正10年(1921年) 折戸ヶ岳に忠魂碑が健立
在郷軍人鹿部分会起工の忠魂碑が折戸ヶ丘に建立、除幕式が行われました。
大正13年(1924年) 鹿部間歇泉発見!
温泉を掘っている時に偶然発見されました。スゴイ!!
昭和4年(1929年)
6月17日
午前10時、駒ヶ岳またも大噴火っ!!!!!
昭和5年(1930年) 大沼電鉄株式会社 鹿部停車場新築
昭和4年1月に開業した直後に駒ヶ岳の噴火で大きな被害をうけた大沼電鉄ですが、翌年には噴水池や温水プールのある近代的な駅舎が新たに建てられたんだって。
昭和7年(1932年) 忠魂碑、現在の鹿部66番地に移設
昭和8年(1933年) 川田男爵が折戸に東溟園農場をオープン!
男爵イモでお馴染み!?の川田龍吉男爵は鹿部の火山灰地の開発の為、折戸地区に東溟園農場を開き、男爵イモ、メークイン、ピーナッツなどを栽培しました。
川田男爵本人も時折来村して現地指導をしたそうな。
昭和9年(1934年) ♪鹿部座開業♪
吉太七郎が発起人となり、市街地の中心にお芝居・映画・音楽会等の娯楽劇場「鹿部座」が新築開業されました!
昭和11年(1936年)
6月27日
昆布礁災害復旧記念碑除幕
駒ヶ岳噴火により大ダメージを受けた昆布礁の災害復旧を記念して、鹿部村に記念碑が建てられました。良かった☆
昭和12年(1937年)
7月7日
日中戦争開始。
昭和16年(1941年) 鹿部小学校、鹿部国民学校と改称。
真珠湾攻撃、第二次世界大戦開戦。
昭和17年(1942年)
11月16日
駒ヶ岳またまた噴火!!!!
昭和20年(1945年) 国鉄砂原線(現函館本線)が開通、鹿部駅開業。
この時作られた駅舎は今だ現役!!
これに伴い大沼電鉄は廃止‥。
7月14日・15日、北海道空襲
8月15日ポツダム宣言受諾、敗戦。
昭和21年(1946年) 忠魂碑、旧鹿部稲荷神社境内に移設。
昭和22年(1947年) 戦後初の統一選挙が行われる
初代村長には吉田金次郎氏が当選☆。
昭和23年(1948年)
1月15日
鹿部~国鉄銚子口間で大沼電鉄が復活!
昭和24年(1949年) 大沼電鉄鹿部駅が「鷹待」駅と改称されました。
昭和27年(1952年) 7月1日 住民登録実施
大沼電鉄、再び廃止‥
一度は復活したものの、旅客及び貨物の減少から再び運行中止、そして廃業となりました‥。
昭和28年(1953年) 鹿部村長&議員選挙が行われ、二代目村長に棟方健太郎氏が当選。
市街地に水道管が布設されました。
昭和29年(1954年) 洞爺丸15号台風で大被害!(T_T)
昭和31年(1956年) 渡島支庁が五稜郭に移転しました。
鹿部稲荷神社移設にともない忠魂碑も四度目の移設!
国鉄「鷹待」駅の名称が7年ぶりに「鹿部」駅に戻されました。
昭和34年(1959年) ミンクの飼育事業が始まりました。
昭和35年(1960年) ピンポンパンポーン♪有線放送が始まりました~。
鹿部~本別間に新道路が完成しました(^-^)
雨鱒川と精進川の硫黄鉱山が廃鉱に‥。
青年研修所開設。
昭和40年(1965年) 小学校で給食がはじまりました。
昆布礁復旧記念碑建立30周年記念式典が行われました。
「広報しかべ」が創刊されました。万歳♪
昭和42年(1967年) 鹿部飛行場の滑走路が完成☆セスナの初飛行が行われました。
すけそうたら供養塔が建立。
昭和43年(1968年) 5月16日十勝沖地震!鹿部では津波が観測されましたが干潮時だった為幸い被害は軽かったそう。助かった~。
国道278号線の工事中、地下から何と約50万枚もの古銭の入った大甕が3個出土!後に志海苔(しのり)古銭と呼ばれました。
いつ、誰が、何の目的でこんなモノを此処に埋めたの!?謎‥。
昭和46年(1971年) 村役場が移転、新庁舎が完成しました。
昭和47年(1972年) 北海道立栽培漁業センター発足。
昭和48年(1973年) 鹿部観光協会設立。
昭和53年(1978年) 抗議大会決議!韓国大型トロール漁船の割り込みですけそうたら漁に大打撃!漁民抗議、海上デモ。
昭和54年(1979年) 鹿部村開基100周年!パチパチパチパチ。
ミス鹿部コンテストもはじめて催されちゃったよん。
平成2年(1990年) 6月、村議会で「鹿部 」を「鹿部 」とする事を決議、
そして12月1日、町制施行!
晴れて「鹿部町」 になりました☆☆
昭和54年(1979年) 演歌歌手・鳥羽一郎の別荘が完成。
鹿部公園が完成。